「ナナメの夕暮れ」を読んだ。

オードリーの若林さんの「ナナメの夕暮れ」を読んだ。

 

ダヴィンチでの連載に、書き下ろしを加えたエッセイ集。

 

Twitterで急に情報が飛び込んできて、最近読書から離れていたことも手伝って、一気に読みきった。

 

若林さんのエッセイを読むのは、「社会人大学 人見知り学部 卒業見込み」以来で、最初は、人見知りや斜に構えた若林さんに共感しながら、ページをめくった。

 

その感覚分かるなあ。ああ、たしかにそういうことありそうだなあ。

 

しかし、第一章の最後「凍える手」で、その印象は一気に覆った。

 

そして、親父が死んでからは本格的に冷笑・揶揄からは卒業しなければならないと思い始めた。死の間際、病室で親父が「ありがとな」と言いながら痩せこけた手で母親と握手している姿を見たからだ。その時にやっと、人間は内ではなく外に向かって生きた方が良いということを全身で理解できた。教訓めいたことでもなくて、内(自意識)ではなく外に大事なものを作った方が人生はイージーだということだ。(「凍える手」P143)

そんな陰鬱な青年期を過ごしてきたから、おじさんになった今こそ世界を肯定する姿を晒さないとダメだと思った。(同)

 

やっぱり、自分も変わっていかなくちゃと思った。

人見知りや斜に構える態度に共感ばかりしていては、ダメなのだと気付かされた。

 

さらに、第二章「ナナメの殺し方」で、自分自身を肯定し、他人を肯定し、やがて世界を肯定していく若林さんの姿に、自分の心が開かされているのを感じた。

 

若林さんの、俺はこうやって変わっていくのだと言わんばかりの有様に、心をグサグサと切り開かれた。

 

そして、最終編「体力の減退」に描かれているオードリーの新作漫才のくだりは、若林さんの変化の極致のようで、熱いものがこみ上げてきた。

ほとんど軽い気持ちで読んだエッセイで、こんな気持ちになるなんて思いもしなかった。

 

読後、どこか肩の荷が下りたような、心がふっと軽くなったよう気がするとともに、自分もこうありたいと思った。

自分が共感を寄せた若林さんが変わっていったからこそ、自分も変わらなければと思った。

 

もっと外に向かって生きていかないと。

そう思わせてくれるに、十分な一冊だった。

 

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ